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たまには過去を見ることも


評価:
城戸久枝
情報センター出版局
¥ 1,680
(2007-08-20)
コメント:戦争には思ったよりも多くの不幸が隠されている
JUGEMテーマ:読書

夏休みに帰省したおり、松山にある母校の同級会で知った。同窓生の城戸久枝さんが大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
http://www.bunshun.co.jp/award/ohya/index.htm
文系の学校であったのでそれほど驚くことでもないし、同窓生というだけで知り合いというわけではないが、なんとなく身近な気がして機会があれば読んでみよう思っていた。秋に同窓会東京支部の懇親会で何冊か配られ、手にすることができた。本を開いて、写真に写っていたその祖母の方の顔が、中学時代にいた同姓の同級生とあまりにも似ていたので驚いた。

この本の著者の父親が満州で親と生き別れとなり、中国で大事に育てられながらも、文化大革命という渦の中で、中国で生きる道を閉ざされ、必死の思いで日本に帰ってきたのだ。そして、この著者自身も成人し必然としてパンドラの箱を開き父親の足跡を追うことになる。
そこには、今もってあまり語られず忘れさられようとしている満州国で哀れな末路をたどった多くの日本人の物語が隠されていた。しかも、まれに生きて日本に帰っても、日本の傀儡政権であった満州国軍に入隊した兵士は日本国軍の兵士とは同じ待遇を受けられず、戦後の補償もそれに準じたものとなっていたことを知る日本人は多くはいないのだろう。そして、それ以上に多くの民間人が二度と日本の地を踏むことがなかった。その数12万人と言われている。
中国の人々のストレートで過激な気性と家族に対する深い愛情もしっかりと語られている。それは、かつては日本人も持っていて今は忘れかけているもののようでもある。貧しくても必死に生きる人々の心のよりどころが家族である。そして、それを脈々と受け継いでゆく家があり、一所懸命に墓を守ってゆくのだろう。

それにしても、上京し核家族となり都会で生活している自分はどうするのか考えさせられる。そういう価値観さえ失い新しい生き場所を求めてさまようジプシーになろうとしているようにも思える。
今日はしばらく閉じて置いてあったこの本を開き、エピローグを読んだ。

ロング・グッドバイ 〜 長いお別れ


評価:
レイモンド・チャンドラー
早川書房
¥ 2,000
(2007-03-08)
コメント:チャンドラーの傑作が甦った。マーロウはより身近にいる。
JUGEMテーマ:読書 
訳者あとがきを読んでいて、数十年前に買った清水俊二訳の文庫本のカバーの青い背表紙を思い出した。高校時代に文学青年と呼ばれていた友人に勧められて買ったものだった。レイモンドチャンドラーは、どこかの大学で米文学の教科書にもとりあげられているらしいということを聞いた。
村上春樹の訳は読み易く、フィリップマーロウという人物をより身近に感じることができた。小説の中の背景が今でもハリウッドあたりにありそうな気がした。
僕にとってはその文学青年はテリーレノックスだった。現実感のない自慢話を幾度となく聞かされ、ときには、弱音を吐いて酔いつぶれる。仕方なく家に担いで帰ったこともあった。ときには、何もできないくせに傲慢だった僕の鼻先をヘシ折り、生意気さだけで持っている実体のないプライドをずたずたにしてくれた。
自分に実力を蓄積することと、その実力を発揮することを、一度にするということは難しいことであるということも教えてくれた。おかげで、ちょっとした冒険も楽しむことができた。ちょうどワンクルーしたところだ。また、蓄積が必要な時期に来ている。
「訳者あとがき 準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」を読んでいて、チャンドラーが45歳を過ぎてから小説を書きはじめたということを知った。彼は自分の小説の主人公のマーロウと同じくらいタフだったのだろう。このあとがきを読んで、いくつか、いや、もっとたくさん、気になっていたことがすっきりとした。

最初に読んだ訳本の題名は「長いお別れ」だった。男女の間のことを思わせるおセンチなタイトルだった。


ゆかりの地をいくつか、Google Maps で訪ねてみた…
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グレート・ギャツビーでGoogle Mapsを楽しむ


評価:
スコット フィッツジェラルド,村上春樹
中央公論新社
¥ 861
(2006-11)
コメント: 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んで村上春樹氏の訳が気にいったので読んでみた。
JUGEMテーマ:読書

はやり、何十年か前に読んだ「華麗なるギャツビー」だった。その本を勧めてくれた文学青年は今はもういない。そう言えば、チャンドラーの本を紹介してくれたのも彼だった。
今回は、Google Mapsで舞台となった場所を捜してみたりと、別な楽しみ方もできた。

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キャッチャー・イン・ザ・ライ

評価:
J.D.サリンジャー
白水社
¥ 1,680
(2003-04-11)
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ご存じ、村上春樹氏による訳出。既に忘れ去った若い頃の気持ちの葛藤を思い出すのにも良い。訳出の違いで読み易く、生き生きとした情景になった。野崎孝氏の『ライ麦畑でつかまえて』を読読んでいて意味不明であったところが明解になっている。これは、表現だけの問題ではない。今でこそ輸入されて定着しているアメリカ文化の数々は、半世紀前の日本にはまだ一般的ではなかったのだろうと想像することができる。そのくらい、日本の文化が変ったということの裏返しでもある。
やはり、ふんわりとして掴もうとすると消えてしまいそうな若者の心理描写は、難解な言い回しではわからない。自然に入ってくる言葉の流れの中でこそ伝わってくる。
結局、この本無くしては、『ライ麦畑でつかまえて』を読み返すことはできなかった。
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ライ麦畑でつかまえて

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学生時代に読んで意味が良く分からなかったのにはそれなりに理由があることがわかった。今回も読むのにずいぶんと時間がかかった。
そもそも、時代にそぐわない昔のいなせな邦訳独特の口語体文語とでも呼んでおくが、その言い回しがくどくて、とても若者の理解できる会話になっていない。内容としては、ナイーブな少年のひとりよがりの話なのだが、どうしても我がままな叔父さんの想い出話のように思えてしまう。今、読み返してみると少しはわかるようになったが、2,3十年前にこれを読んでもピント来なかったことは、いたしかたないと思った。
今ごろになって、当時の悪友がしきりにこの本を奨めてくれた理由もわかったような気がする。彼は文学青年と呼ばれるくらい小説好きだったのだが、それだけでなく、その登場人物に成り切ろうとする変な趣向も持ち合わせていた。当時は、その言動が少し不可解ではあったのだが、色々なことを教えてくれる兄きのような存在でもあった。今、この本を読み返して感じたことは、彼こそこの小説の中の主人公に共感を覚えていたナイーブな人間の一人だったということだった。洒落として大袈裟にナイーブさを見せようとするその振るまいの裏には、実は寂しさがあったのだろう。心の弱さを分かってくれる友人が欲しかったんだと今ごろになって思った。しかし、残念ながら、事は既に遅きにすぎた。

この本を読み返すきっかけは、村上春樹氏の訳出だった。四半世紀前にすでに、古典化していた邦訳本を今の若者に読んで理解しろというのは無理である。あまりにも行間が多過ぎるのだ。村上氏の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、この隙間を埋めてくれた。
今更、わかり易い新訳本を片手に刹那的な古典の訳本を読むこともなかったのだが、昔読んだ折の気持ちに少しでも触れられるのではないかという期待であえて読んでみた。まあ、それはそれで儚いものである。
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